ポスティングを申請し、その動向が注目される鈴木誠也。今シーズン、キャリアハイの38本塁打を打ち、2度目の首位打者を獲得した。 果たして日本の誇るスラッガーはどうやって生まれたのか。 「野球をもっと楽しむ場所を作る」ことを目指し、鈴木自身がコンテンツを配信する「オンラインBASEBALL PARK」で語った、幼少期を紹介する。 ■ 幼少期を振り返って気づく「考える力」 鈴木誠也です。 今回から数回にわたって、僕自身の半生を振り返りながら、これまで経験してきたことが今にどう生きているか、どう感じているかを綴ってみたいと思います。 目的は「野球」について自分で考えることの大事さと、(あくまで僕が思う)考える力のつけ方を提示することです。 「誠也選手のように“トップレベルの選手であり続けながら野球を大好きでいる”ためにはどうすればいいのか教えてほしい」という編集部からのとても難しい問いに、なんとか答えることができたらいいなと思います。 そして、野球をしている子ども、教える指導者はもちろん、それ以外のスポーツにたずさわっている子ども、教育関係者の方々に、なにかヒントになってくれれば、と。
父親のジャイアンツ中継を消していた幼少期 僕は野球が大好きです。プレーするのはとても楽しい。もちろん、悔しいことやつらいこと、きついこともあります。でも、やっぱり野球がやりたくなるし、もっとうまくなりたい、日本のどの選手にも負けたくないという気持ちが生まれてきます。 大前提として、この「楽しむ」という状態は、何をするにせよとても大きな要素になると思っています。というのも、「楽しい」「好き」でいられることで、積極的に「もっとうまくなる方法」や「同じ失敗しないための取り組み」について考える力が養われるからです。 当たり前のことですが「いやいや」やっていることに対して、自分から考えてみようとか新しいことを取り組もうと思える人は少ないと思います。 僕が野球をはじめたのは祖父のすすめで2歳のころだったと聞きますが、それについてはまったく記憶がなく、物心がついたころは「やらされる野球」があまり好きではなかった記憶があります。 チームに入ったのが小学2年生のときのことです。仲のいい友達や幼馴染の女の子が野球を始め、それを見に行ったことがきっかけで「僕もやってみたい」と思うようになりました。 皆と同じチームではじめたのですが、その後、「どうせやるなら」と言う父親のすすめもあり硬式チームが活動の中心となりました。この頃はとにかく「する」ことが大好きで、あまりプロ野球やメジャーリーグの試合を観ていた記憶がありません。 むしろ、父親がいつもつけていたジャイアンツ戦の中継が好きではなくて、勝手に消していました(笑)。 子どもの頃からうまかったんでしょう? そう聞かれることがあるのですが、実はあんまり「うまい」「下手」という記憶がないんです。 もちろん始めたばかりの頃はボールを捕ることもできなくて悔しくて悔しくて、父親とキャッチボールをしたり、フライを捕る練習をしたりしていました。あと、覚えているのは二年生のときに六年生のピッチャーと紅白戦で対戦したときのこと。デッドボールを受けて、あまりの痛さにその場で泣いた。父親が「泣くんだったらやめろ」と言われて、もう一回打席に立ちました。あれは、よく覚えています(笑)。 ただ、そんな自分がどういうレベルだったかについては本当にわかりません。というのも、ただただ「楽しかった」んですね。遠くに投げること、打つこと。仲間とやること。それが楽しくて仕方なかった。 だから、自分がうまいのか、下手なのかということを考えたことがありませんでした。練習がない日は、外で集まって遊びの野球。当時はテレビゲームなんかも流行りだしていたんですけど、たまにやるにしても野球ゲーム。 しかもコンピューター同士が対戦する映像を延々と見ながら、バッターはどうやって打っているんだろうとか、次は何を投げるんだろうなんてことを考えて楽しんでいました。ちなみに野球グッズを集めるのも好きだった僕は――いつも年始の福袋で買うんですが――、それでゲットした「野球のヘルメット」をかぶりながら、コンピューターの対戦を見ていました(ゲームをするのではなく、コンピューター同士の対戦を! )。 笑い話ですけど、それを見た父親が絶句して「お前、頭大丈夫か?」って(笑)。
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